夏のニオイというと、何が思い浮かぶだろうか。
海風の匂い?アスファルトの煮える匂い?トマト畑のすこし青くさい匂いかもしれないし、虫取りに出かけた林の懐かしい匂いかもしれない。はたまた青春の友情と汗の香り?……様々にあるかもしれないが、ひとつ私が確信を持って言えることがある。夏の終わりのニオイは、後ろから追い立てる風の、もわもわと生ぬるい熱気と相まったひどく不愉快な匂いだ。夏の終わりのニオイとしか言いようのない特殊な匂い。私はあれが大嫌いだ。ついでに言うと、始業式の朝のわいわい言う声も大嫌い。その声が登校中のその道まで届いてうんざりと校舎を仰ぐと、校舎がわめき散らしているような錯覚に陥る。
――建物は黙っているのが一番いい。前を歩く同級や後輩たちは、一人でいるものも、大勢でいるものもいる。夏期休暇終わりの気だる気な顔、友人に会える喜びを隠しきれないような顔。でも誰も校舎のざわめきに気づく様子はない。どうして誰も顔をしかめていないんだろう、どうして私はこの光景がこんなに嫌いなんだろう。日差しは少し弱いものの、踏みしめるアスファルトからは靴越しにでも熱が伝わってくる。
「蒼衣、久しぶりー!」
後ろから唐突に千昭が肩をたたく。彼女が突然なのはいつものことだが、どうしても慣れない。
考え事ばかりしているせいもあるかもしれないけれど。
「おはよ。夏休みどっか行った?」
「行った行った! 北海道! お土産もあるから、後で渡すよ」
「はー、いいねえ」
「そういう蒼衣は?」
「あー、そうだね。親とその辺に。お土産はありませんから期待しないでね」
ちぇ。と口をとがらせる千昭を見ながらそういえば彼女の誕生日が近かったことを思い出す。
お土産の詫びにいつもより豪華めのプレゼントをあげないといけないな。なんて今になってお土産を用意しなかったことが申し訳ない。
「新学期だねえ! わくわくするね!!」
「なに? 勉強嫌いじゃなかったっけ」
「人聞き悪いなー。頑張ってますよ、物理は」
「……後期時間割か。あんたって本当に趣味悪い」
今学期の途中からの後期時間割では、「生徒に大人気」な間宮の物理のコマが増えるのだ。彼にゾッコンな千昭はそれを楽しみにしているらしく、二宮金次郎よろしく「高校物理」の教科書をいつも携帯しすり減らしている。
「趣味が悪いのは蒼衣のほうよ。多数決とる?」
「結構です。間宮のことなんて考えたくもない」
私たちが入学したのと同じ年度に赴任してきたらしい物理教師、間宮圭人は普通の優しくて気さくな教師だ。彼は仕事もしっかりこなすし、新人にしちゃ頼もしいと担任が褒めていた。私としては実にうさんくさいの一言だけど。
教室につくと彼女は鞄をごそごそと漁って、少し細長い小さな紙袋を取り出した。
「はい、お土産」
彼女は他にもたくさんお土産を買ってきたようで、私がお礼を言って受け取ったのを見ると、いろいろな大きさの袋を持って騒がしい教室中を回り始めた。
袋を開けると二つ折りになったメモ帳と白い猫のストラップの箱が出てきた。そこにはクセの強い右上がりの字で、「蒼衣は猫アレルギーの猫好きだから、猫ちゃんストラップだよ!! 私って優しい!」とあり、なんだかよくわからない絵(親指を立てている女の子?)が添えられていた。というか北海道関係ないぞこれ、なんて心野中で悪態をつきながらもこういったことをわざわざ覚えていてくれるのは素直に嬉しいもので、教室の前の方でお土産を配り回っている千昭に視線を移す。
彼女はこの学校でできた最初の友人だ。崎海蒼衣、里田千昭。出席番号が前後だった私たちは式が終わってすぐの身体測定に並ぶ列で会話をした。自分から人に話しかけることがもともと得意でない私だが、人と関わることが嫌いなわけではない。彼女がフレンドリーな性格であり、私に声をかけてくれたことは本当に幸運だったと思う。他の友人はみな彼女のおかげでできたようなものだった。
SHRのチャイムが鳴る。担任は体調に異常がある生徒に自己申告させると、廊下に並べと指示した。新学期の興奮の冷めやらぬ私たちは静かにしろと怒られながら廊下に並び、先生の指示で体育館へ移動していく。
式のはじまりは校長先生のありがたいお話からだ。校長の話は正直言ってだるい。いらない話が多すぎて何が言いたいのかいまいちよくわからないのだ。それは私だけではないようで、うちの担任なんかいつもこっそりあくびをしているし、生徒たちは生徒たちで体育座りになった瞬間居眠りを始める。
「私ね、お兄ちゃんに見せたいものがあるの」
「なんだ? 楽しみだな」
少女と青年が歩く渡り廊下からは、満開の桜が見下ろせる。上には雲一つない、青い空が広がっている。手をつないで歩く二人は、兄妹である。瞬間、厚く黒い雲が空を覆った。稲光が瞬く。バケツをひっくり返したような雨が降り始めたが、二人が濡れる様子はない。黒い影が二人の上に落ちたかと思うと、青年は廊下の柵を後ろに少女と向かい合っていた。雨は一層強くなりはじめていた。
長い話が終わり、生徒全員が立ち上がる。私もそれに合わせて落ち着かない足で立ち上がり、礼をする。頭が痛い。この夢を見るのは、いつぶりだろうか。この夢には続きがある。落下しながら少女に向かって手を伸ばす青年、それをただ見つめる少女。……あの日の出来事は、悪い夢のように感じ始めていた。不思議と、自然にそう思うのだ。あれは悪い夢だった。兄の痕跡はもうどこにもない。母と私は家を越した。母は私のことを気遣ったのだと思う。兄が死ぬのを見た私が、その記憶を忘れてしまえるように。もちろん忘れることは出来なかった。私は彼が死ぬのを見ただけでない。彼を突き落とした。思い出すだけで叫んでしまいそうになる。けれどいつからか私は、これを夢のように遠い出来事に感じていた。つらいことがあると記憶喪失になるとよく聞くが、それに近いものだろう。私は自分を守るために、無意識にそうしているのだと自覚しながら、その無意識に甘えていた。