2012年
9月
23日
そこは名もなき海辺の街。名前のない街などあるのか、という問いはまさに愚問である。この街は訪れる人々によって多くの名を付けられ、本当の名を忘れられてしまった街だからだ。
しかし、名のないままでは説明も難しい。私の古い知り合いが呼んでいた名で呼ぶとしよう。アンチテージと。
海を囲むような三日月型のこの街――アンチテージに訪れたとき、私はある想いを抱えていた。これはここで特筆すべきことではないだろうから割愛する、と言いたいところだがそれでは話が見えてこないので、私は自分の居場所を探していたとだけ記しておこう。
長い旅になるだろうと故郷を離れ、二度目に寄ったのがアンチテージだった。――ちなみに最初に訪れた街はソリテュードという街で、賑やかな市場のある、果物の美味しい街だ。
アンチテージのその弓なりな地形のために、私の目の前に、不意に海が現れた。日ももう落ちて、少ない街灯でようやく前が見えるくらいだったが、その海だけは強く光り輝いていた。彼女は僕に語りかけるようだった。まるでなかなか眠れない子どもに本を読み聞かせるかのように、薄暗い明かりと確かな温もりをくれた。あれは雪が降る少し前のことだったから、導かれるように足を踏み入れれば、彼女の方がはるかに温かかった。
今思えば、あの海の中に何かを見つけようとしていたのかもしれない。それもただの推測にしかならないほど、あのときの僕は彼女に魅了されていた。
腰のところまで水が来て、掻き上げた髪からは海が滴った。頬を滑り落ちる滴に、自分は泣いているのだろうかと思った。そしてそうでないと気付いたとき、知らぬ間に笑っていたのだ。馬鹿げていると思った。自分は誰かのためではなく、ましてやエゴのせいでもない。ただ逃げてここにいるのだ。そう、知ってしまった。
ふと、遠くから私を呼ぶ声がする。来たときよりもずっと重い水を押しのけながら、私は浜辺へと戻った。
「もう何人目かしらない。たまに、他の街からここへ来た奴がお前みたいに海に入っていくんだ」
引き留められてよかったよ、そう笑う彼の目元には、優しそうな深いしわが刻まれていた。彼はこの街の話をしながら、私を「秘密基地」へと案内してくれた。涼しげでいて、どこか儚げなその建物は、彼の運営する喫茶店だという。鍵穴のないドアを開けて店に入ると、彼はすぐに紅茶を2人分持ってきた。
「喫茶店と言っても、営業するのはこの時間帯だけだ。海の魔法がかかる、この時間帯だけ。なにぶん年寄り何でな、体がもたん」
「海の魔法」。彼は確かそう言っていた。魔法なんて信じている様子ではなかったが、彼が言うのを見ながら、あぁ彼もまた海に魅せられた一人だったのだ。私と同じだったのだと思った。自分でも信じられないほど自然に、言葉を紡いでいた。
「雇って貰えませんか」
彼はその言葉を私が発することを、ずっと前から知っていたようだった。満足げに微笑むと、履いていたカーゴの一番大きなポケットから、シンプルな鍵を取り出した。
「この店には盗られるようなものは何にもない。奥に1つ、小さいが金庫がある。大切なものをそこに入れなさい。私はもう長くないから、お前の番だ」
紅茶に薬が入っていたと気付いたのは、分厚い毛布を掛けられ、ちいさなカイロを握りしめて目覚めたときだった。